各種報告
福田研究会部長が大切にする「人との繋がり」

 今回は現在の城南支部の中で、中小ものづくり企業診断の指導的立場の一人でもある福田和彦研究会部長の人となりを探った。取材の間、何度も「人との繋がり」を語っていただいたことが印象に残った。それは資格取得後すぐに独立し診断士活動を活発に行いながら城南支部活動にも貢献してきた福田部長のこれまでの成功を支える原動力となっているようであった。

■城南支部の中小ものづくり企業診断の指導者である福田研究会部長の原点となる場所
 大田区蒲田。かつて駅前の繁華街や商店街は別としてほとんど全部が工場街であったそうだ。
 実家は祖父が起こした金属プレス工場。隣近所はメッキや金属製品の工場があった。そういった町で福田部長は生まれ育った。
 福田部長の祖父は、戦後、蒲田で板金加工を中心とした会社を起こしたそうだ。そしてその会社を父親が継ぎ金属プレス業に特化していき、福田部長も当然その会社を継ぐと考えていた。
 「基本的にこの会社を継ぐんだろうなって、小学生くらいの時からそんな風に思っていました。ほかの選択肢がなかったというか、工場街でしたからね。」
 そう語る福田部長のお住いの一角も宅地化が進み、もう残っている工場はほとんどないそうだ。

■苦境の時代と中小企業診断士との出会い
 福田部長は大学で機械工学を学んだあと、実家の工場では学べないようなビジネススキルを得ることで家業に貢献できると考え、OA機器の製造会社に就職する。
 入社して4年ほど経った頃、実家の経営が苦しくなってきた様子に気付き、家業を手伝う決断をした。福田部長は会社を退職し、実家の工場で働くこととした。
「最初はそんなに危機感はなかったですね。ところがとりあえず実家の工場で働き出して、いくらもしないうちに債務超過に陥るまでになって。」と当時を振り返る。
 70名を超える社員を抱える中、福田部長は必死に営業をし、前職での修行の経験も活かし取引先の開拓に邁進した。しかし、金属プレス加工の大量生産は徐々に中国などアジアに移って行く時代であり、福田部長が獲得した以上に仕事は中国などに流れて行く厳しい時期が続く。7、8年間踏ん張ったものの最終的には廃業することとなった。

 苦境の中ではあったが、福田部長は多くの人に助けられ人脈の築き方を学んだ時代でもあったと言う。会社の経営が苦しくなる中、実家の経営に関わる利害関係者であっても、他者とは違う客観的な視点や目先の利害関係にとらわれない視野の広さを感じさせる意見を言ってくれる人達も何人かいた。そしてそのような人たちは、不思議と診断士ばかりだったそうだ。
 福田部長は、会社を廃業させた後、診断士のような視点や視野を持つことで、あの時どうすればよかったのかを考えられるのではないかとの思いで、中小企業診断士資格取得を決心する。

■中小企業診断士資格の取得そして独立へ
 資格取得を決心した後、2009年に診断士登録をするが合格した当時は職に就いておらず、資格に合格したもののこの先はどうすればよいのか先行きが見えない状況だったそうである。そうしたとき実務補習で城南支部の大先輩の指導を受け、直ぐに診断士として開業をすることとプロコンの塾に入ることを強く勧められた。そして実務補習が終わると診断士として独立し、東京プロコン塾(当時は城南コンサル塾が休止期間)に入塾をする。
 独立後は、協会経由の専門家募集に片っ端から申し込み、城南支部の諸先輩方からも多くの仕事の紹介を頂くなど、頂ける仕事はなんでもするという姿勢で活動を開始したという。

 当時、福田部長が大事にしていたのが先輩方との「繋がり」であった。「はじめてする仕事ばかりですから、いざとなったら教えてもらうこともある。また、先輩方が仕事を誰かに任すとき、誰の顔が最初に頭に浮かぶかなって。そういった意味でよい関係を作っておくっていうのが基本だと思います。」と福田部長は話す。
 十数年前、中小企業診断士の知名度は今ほど高くはなかったが、当時の城南支部の先輩方が行政機関や商工会議所との関係を築いたからこそ、着実に仕事が集まってきていたこともある。「現在のように中小企業診断士の知名度が向上してきたのもこの当時の先輩方が地道に頑張ってきたから。」と今でも福田部長は諸先輩方に対して感謝の気持ちを大切に持ちながら、その「繋がり」を大事にしている。

■工場現場診断ができる診断士の育成
 福田部長は「ものづくりイノベーション研究会」の事務局としての顔も持っている。まだ診断士1年目の当時、製造業の工場現場がわかる若手の診断士が減っていることが城南支部で問題になっていた。2001年(平成13年)の試験制度変更でそれまでの商業、工鉱業、情報といった登録部門が撤廃され、製造現場出身の診断士が減ったというのが要因とのことだ。
「製造現場がわからない人たちが診断士になる時代だから、診断士になった人を製造現場の診断ができるように育てる」というミッションのもと当研究会が発足した。福田部長は発足時から今に至るまで育成の一翼を担っている。現在まで工場現場の基礎的な知識を習得する場として多くの診断士たちが当研究会に参加し、実践に出ていったとのことだ。

■研究会部の仕事
 研究会部の仕事は、城南支部が認定した研究会の活動を支援し、研究活動の活発化を通じて会員能力と実践力の向上を図ることであり、専門分野エキスパート育成コース(エキスパートコース)の運営も支援している。エキスパートコースは福田部長が研究会部長になる前後から立ち上げたそうである。
 城南支部では研究会・エキスパートコースの認定を行い、認定した研究会には活動補助金を支給し、研究会・エキスパートコースともに活動報告の場を提供する。研究会部は、研究会・エキスパートコースの宣伝や説明の場を設けることや、直近ではコロナ禍で活動が対面で行えない中、支部と調整をとりながら様々な支援を行っている。
 そういった関係の中で研究会部の部長としての役割は「各研究会やエキスパートコースと友好的な関係を維持しながら彼らの発展を支え、城南支部ないしは東京協会を盛り上げるために活動する」ということだと語っていただいた。

■診断士としての考え方
 福田部長は「がむしゃらにすること」が診断士活動のモットーとなっている。診断士となって直ぐに独立したということもあり、人との繋がりを大事にしつつ依頼を受けた仕事はがむしゃらに行いやり遂げる。それにより信頼を得てあらたな仕事につながり、その信頼からまたあらたな人との出会いや繋がりが生じるのだという。そして「常に終わった仕事に対して、あれで本当によかったのかを疑う姿勢を持ち続けること。」が大事であり、特に誰も客観的に評価してくれない独立診断士にはそのことが言えると語る。
 また、現在のようなコロナ禍の診断士活動において常に頭に浮かぶのは「虫の目、鳥の目、魚の目」という虫のように細部に近づいて見つめる視点、鳥のように高いところから全体を見渡す視点、魚のように潮目の変化を見極める視点を表現した言葉だ。福田部長はその中でも特に大事なのは魚の目だと言う。「コロナ禍では取り巻く環境が大きくスピーディに変化しコロナ禍前後で全然違う世界になるだろう。潮目の変化をしっかり見極め対応することが診断士として差別化につながる。」

■支部会員、新診断士に対するメッセージ
 支部会員に対するメッセージを伺うと、城南支部は会員数が900人を超え、最近ではチューター制度もでき、支部の雰囲気も上り調子であるため是非一緒に盛り上げていって欲しいとの言葉をいただいた。
 そして、新診断士に対しては、「まずは人脈作りに取り組んでください」と、取材中に感じた人との繋がりを大事にする福田部長らしい言葉をいただいた。そしてそのきっかけとして研究会を活用してみるとよいという。そこで人と繋がって、知っている人がいるから城南支部のイベントに出て、そこでまた人と繋がってと人脈を広げていく。「新診断士の方には、研究会活動は定例会に参加するのは当然としてそのあとの飲み会の方がもしかしたら重要ではないかなという話を良くしています。」と冗談交じりに話す福田部長の場合、新診断士であった当時には7つ位の研究会に入っていたそうである。

■取材の最後に
 今回の取材の最後に、福田部長の診断士以外の一面を知るために趣味について尋ねた。もう30年近く、冬は一人で雪山まで車で行き、スノーボードをしていることが多いそうだ。また、最近は、メダカを飼いながら睡蓮を咲かせることにも凝っているそうだ。診断士取得後直ぐに独立しその直後から城南支部に深くかかわり、診断士活動において人との繋がりを大切にされているお話を伺った時の福田部長とは異なる一面に触れさせていただいた。

福田部長がメダカを飼われている睡蓮鉢

【筆者紹介】

河野 匡伸(こうの まさのぶ)
2021年 中小企業診断士登録。金融機関に勤務する企業内診断士。
システムアナリスト、システム監査技術者、CISA等保有。
神戸大学大学院経営学修士。

21/08/31 10:13 | 投稿者:羽田巧

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