今回のインタビューは、「城南支部 副支部長」「城南支部 総務部長」「日本気象予報士会 副会長」「個人情報保護士会 理事」「目黒中小企業診断士会 理事」と多彩な肩書を持つ岩田修副支部長の刺激的なキャリアと素顔をお届けする。
岩田修副支部長(以下、副支部長)のキャリアは彩り豊かである。世間の注目を集める様々な組織で結果を残してきた。その第一歩は社会人として世に出る前、1983年に遡る。当時、早稲田大学4年生だった副支部長は、同年4月15日の開園に向けて準備を進めていたオリエンタルランドへ契約社員として参画。なんと、東京ディズニーランドの開園メンバーとなったのである。これがその後「組織設立・活性化のプロフェッショナル」となる副支部長にとって、組織設立の原体験となった。そのまま東京ディズニーリゾート発展のど真ん中にいることもできたのであろうが、副支部長は卒業後の進路をIT業界に定めた。
マイクロソフトの日本法人が設立されたのは1986年。その設立メンバー18名のひとりで「社員番号11番」。それが岩田副支部長である。その後、副支部長はIT産業の発展に合わせて活躍の場を広げ、日本のIT革命の中心で20年間におよぶ活躍を続けることとなる。
大学時代に理工学部でコンピューターに触れていた副支部長は1984年にアスキーへ入社。当時のアスキーは米マイクロソフト製のMS-DOSやMultiplan(マルチプラン:初期の表計算ソフト)を国内で独占販売していたが、入社3年目に当時の上司に誘われて、マイクロソフトの日本法人設立に参画した。
なお、設立当時はとにかく人手が足らず、副支部長はありとあらゆることを引き受ける「総務」を担当した。これが副支部長の「総務」の原点である。
その後、副支部長は営業へ異動し躍動する。Multiplanを売りまくり1986年には全世界のマイクロソフト社におけるトップ営業マンとなったのだ。翌年にチェアマン・ザ・アワードに選ばれフランス中部の高級リゾート地、レ・ザルクに招かれ、ビル・ゲイツと2人で壇上に立ち、記念品の高級時計を授与された。しかし当時はIT産業の黎明期であり群雄割拠の時代。表計算ソフトで競合していたロータス1-2-3は陣営に孫正義氏が率いるソフトバンクを迎え入れて急速にシェアを伸ばした。孫氏の猛攻によりMultiplanは一気に劣勢に立たされたのである。更にワープロソフトでは「一太郎」が売上を急伸。この窮地に対してマイクロソフトは大勝負に出る。MS-DOSとMultiplanの売上減少を覚悟のうえで、Windowsの発売に踏み切ったのだ。
1995年のWindows95発売時には、副支部長はチャネルマーケティングを担当。社会現象ともいうべき熱狂の中で同社がOSおよびビジネスソフトウェア市場を席巻し、デファクトスタンダードの地位を確立したことは、ビジネス史に残る伝説的なエピソードである。
なお、当時からビル・ゲイツは何度も来日しており、時には焼き鳥屋などへ案内し、ワインで盃を交わしたことも良い思い出である。
その後、副支部長はカスタマーサービス部門を設立し自ら総責任者を務めた。最大120名のオペレーターがユーザーからの厳しい問い合わせに直面する中、管理職でも対応できない問い合わせはすべて総責任者である副支部長の元へ来た。自分の後ろには社長しかおらず、いかなるクレームであろうとも最後は自分が何とかしなければならない。こうした役割を副支部長は「キワ(際)」と表現する。
総務部門も組織のキワである。例えば営業は最前線でお客様の立場、社内の事情のどちらにも寄り添い、時には片方を優先するなどバランスを取りながら収益の最大化を目指すが、「後ろ」がある。一方、総務は前線の営業や製造部門を支える存在でなければならず、後ろから支えてくれる人はいない。組織としてこれ以上の内側がない、つまり” キワ”である。
そんなキワからは組織全体が俯瞰できる。城南支部の総務部からも支部内がどうなっているか、内側がよく見える。キワから組織全体を眺め、自分達から動き支部内で起きていることを理解し、前線よりもキワからの方が解決しやすい問題には積極的に総務が関わる。副支部長は、それこそ総務の醍醐味であるという。
こうしたキワをはじめとする副支部長の組織設計思想は、そのキャリアで積んだ経験に深く根差していると筆者は感じた。そこで企業の最前線から組織のキワまで実に様々な役割を経験してきた副支部長の多彩なキャリアを、さらに紐解いていく。
その後、副支部長はマイクロソフト日本法人の要職を渡り歩き順調にキャリアを積む。インタビューを通して、様々な組織の新設や活性化に取り組んできた副支部長のエピソードの数々には驚きの連続であったが、中でも最も予想外だったのが、「なぜ気象予報士の資格を取ったのか」という問いに対する副支部長の答えである。
2000年のはじめ、副支部長が日本マイクロソフトの渉外担当責任者として当時の小泉内閣の官邸との調整に奔走する激務に疲れ切っていたある日のこと。ふと空を見上げると人間の力が及ばない所でいつも通りに雲が流れているのを見て、「理系である自分が天気予報をしたら当たるのかな」と興味を持った。そこで勉強してみたら非常に面白くなり、難関試験にもかかわらず、激務の中で時間を作って9カ月で一発合格したというのがその真相。つまり動機は「気象予報への純粋な好奇心」だったのである。
そんな動機であったため、副支部長は「お天気おじさんとしてテレビに出たい」という願望が一切なかった。代わりに「組織のプロ」である副支部長が本領を発揮したのが、日本気象予報士会という組織のこと。組織としてもっと改善できそうなのにもったいないという思いが強くなり、様々な提案をしているうちに全国組織の役員就任を要請され役員に就任。直近の12年間は、日本気象予報士会の専務理事幹事長として会長を支えた。
具体的に副支部長が着手したのは、組織構造全体の見直しである。最も力を入れたのは「法人化」。一般社団法人として法人格を取得し、法人組織としてどのように運営するかについては一番頭を悩ませた。組織として会員を支えるためには会員に仕事を提供する必要もあると考え、気象予報氏としての技能研鑽を目的とした能力開発セミナーなども開催した。
また、気象予報士は気象業務法で定められている国家資格であり、気象予報の現場で気象庁等から出てくる数値を元に天気を予想する地味な技術者であるが、昨今では予報のデータを用いた防災上のコメントや環境の提言などにも国民の期待が広がっており、そちらへの対応も強化した。さらに最近は企業内診断士ならぬ企業内予報士が増えているが、「予報の情報を用いて所属企業の事業を大きくするための能力」を育成する取り組みを国の事業の一つとして気象庁と進めている。副支部長はこれを「気象予報士という国家資格が国の経済を推進するためにどれだけ役に立つか」の実験場所として位置づけているが、気象予報士と同様に公益性が高い中小企業診断士も、国や行政との結びつきをより強めることで更に公益性を高めていけるのではないかと考えている。
気象予報士会における副支部長のこうした取り組みに対しては「気象庁長官賞」や「国土交通大臣賞」の受賞といった形で高い評価を受けている。
公益性が高い中小企業診断士であるがwithコロナ時代、そして菅政権下においてその真価が問われる時代に来ている。副支部長は、こうした時代に最も大切なことは「視野を広く持つこと」であると話す。
中小企業診断士は経営診断のプロフェッショナルであり、クライアントから大小様々な相談を受ける中で自分なりの最善の提案を行う。しかし、時には税理士や社労士といった他の士業を巻き込んで診断士がその中心でハブとなり、丸投げするのではなくお客様を自分で抱えながら全体をマネジメントしなければならない事もある。これは診断士にしかできないことであるが、そのためには視野を広く持って出来るだけ色んな社会経験を積んだ方がいい。副支部長は、「そういう経験を積むことができる場が診断士協会でありたいし、そのために城南支部においては会員の皆様に色んなイベントへの参加を増やしていただき、色んな人脈を広げて、視野を広げるための経験を積んでほしい。僕もまだ勉強中、日々勉強ですが、副支部長としてそういう場を提供する支部にしていきたい。」と語る。そして「自分たちだけが幸せになるのではなく、外から見て『診断士にこれを頼みたいな』や『頼んでよかったよ』と思ってもらえるようなパワーアップを一人一人が図っていくべきだと考えている」という副支部長の言葉は、特に筆者の心に残った。
筆者が6月に城南支部へ入会してからオンラインの画面越しに拝見する副支部長の印象は「ダンディー」。本企画に先立ち青年部の先輩方に伺った副支部長のイメージも「ダンディー」であった。それもそのはず。マイクロソフトで性別も国籍も関係なく多様性に富んだ同僚たちと何ら違和感もなく働いた経験が、副支部長の物腰の柔らかさと安定したバランス感覚を育んだのであろう。
そしてダンディーなだけでなく、インタビューでは『中小企業診断士が国や行政の事業のど真ん中で活躍する時代』を目指し現在60歳の副支部長が70歳までの10年間で次世代に渡す土壌を築きたいと語る「情熱の診断士」でもあった。
誰もが経験できるわけではない稀有なサラリーマン時代を経験し、日本気象予報士会では12年間、専務理事幹事長として組織の活性化を主導した副支部長が、これから何を仕掛けるのか。筆者は、副支部長が語る診断士像に心が躍り、月並みだが城南支部に入会して良かったと感じた。
このように、岩田副支部長は華やかな経歴が行列を作って渋滞しているようなお方である。今後副支部長とお会いする際には、ぜひ気になる経歴の話を聞いてみていただきたい。きっと、楽しそうに応じて下さることであろう。
【著者紹介】
原口 靖史(はらぐちやすし)
千葉県浦安市出身 ※ネタではなく偶然です 笑
1996年 早稲田大学商学部卒業
1999年 映像制作会社に勤務(現職)
2020年 診断士登録 現在企業内診断士
中小企業診断士一発合格道場ブログ執筆中
雑誌「企業診断10月号」第1特集記事執筆
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