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1.中小企業診断士の誕生・歴史・そして将来展望
中小企業診断士とはそもそも何であるのか
中小企業診断士の役割とは何であろうか。まず、中小企業診断士とは何であるのか。中小企業を育成強化するためにその企業を診断するというのは大きな定義から言えば世間一般で言うコンサルタントの一分野であろう。コンサルタントを文字どおり訳せば、相談相手、顧問という意味になる。これが一般的に言われる意味である。中小企業にとってのコンサルタントは中小企業診断士が行政を通して、または民間企業と直接営業をして、その診断・育成・支援ということになるが、このほかに独立系の公認会計士・税理士、場合によっては組織まで言及することがある。
コンサルティング・ファーム、民間や公共機関の内部のコンサルティング部門・経営開発や生産性、中小企業教育関連の団体、地域普及機関、個人(独立コンサルタント、大学教授など)、場合によっては経営者でも仲間や部下に助言を与える時でもコンサルタントとの役割を果たしているといっている。意味が非常に広い。定義として2つを上げている。

(1)コンサルティング機能を幅広く解釈する考え方でフリッツ・スチールの定義である。
 または一連の業務内容、プロセスないし構成についてどんな形にしても助力を提供することであり、その場合コンサルタント業務それ自体の遂行に責任はなく、実際の責任者を助力しているというものでsる。即ちコンサルタントが助力者、つまり力を貸して事をなす可能にする人である。この定義によれば経営者でも部下に指示や命令に変えて助言や助力を与える気になったら、コンサルタントになることができる。

(2)コンサルティングを専門的職業的サービスと見る考え方である。
ラリー・グレイナー、ロバート・メッツガーの考え方である。専門教育を受けた有資格者が組織と契約して提供する助言サービスであり、クライアントの組織に対しては客観的、かつ独立した方法により経営管理上の問題を発見し、助力し、その分析、問題解決の勧告、さらに要請があれば、解決策の実施助力をを行うものである。

これら2つの方法は相反しているよりも相互補完しているものとみなされよう。経営コンサルティングとは専門サービス、あるいは実際的な助言と助力を提供する方法のいずれか1つであるとみることができよう。この考え方が後年、日本の中小企業診断士制度に対して影響を与えていると私は考えている。

中小企業診断士が生まれた時代的背景

昭和20年代の日本の状況は如何なるものであったろうか。昭和23年秋、中小企業庁指導の下に日本において診断制度が始まった。昭和29年、社団法人中小企業診断協会が創立された。それから約10年の間に国内各県下に各支部が生まれたのである。第一回中小企業診断士試験が行われたのは昭和38年である。その間中小企業診断士は中小企業経営指導者養成講座を受講して終了した者に対して中小企業診断士として登録した。登録した人が各診断業務に従事した。当時の中小企業指導官・岸本隆之氏の回顧録をみれば昭和27,28年頃が診断件数が一番多かったと言っている。

(1)昭和20年代の日本国内状況
このころの日本の国内状況はどうであったか。昭和20年8月15日に敗戦となり連合国に無条件降伏した。食料が不足し、物価は上がり、インフレが進行し、餓死者もでた。昭和21年2月1日、労働組合側が全国的ジェネラルストライキを実施しようとしたが、占領しているアメリカから「スト中止」の指令が発令され「スト」は中止された。日本国民はいかにして生きる道を見つけるかに必死であった。日本は混乱・騒擾の時代であった。

時の首相吉田茂は東大教授有沢広巳を委員長にして石炭委員会を創り、石炭増産の計画をたてた。世に有名な「傾斜生産方式」である。「鉄を作るには石炭がいる。石炭を掘るには鉄がいる。この循環を円滑に運営するためには重油が必要である。重油が手に入ればそれで鉄を作り、その鉄を炭坑に回して石炭を掘る」ということによって日本経済の再生を図るという理論である。賃金がないのでGHQに要請してアメリカからの輸入援助を願った。アメリカから15万トンの輸入があったという。これで息を日本経済は吹き返したのである。

昭和24年を境にしてアメリカの占領政策が微妙に変わりはじめた。今までは日本から軍国主義を一掃し、ガリオア・エロア資金などにより生かさず殺さずという最低限の生活を与えることにしていたのが、日本を共産主義の防波堤として自立させる必要が生じてきた。

GHQはアメリカからドッジを日本に招聘し日本経済の復興策定に当たらせた。いわゆるドッジラインの実施である。デフレ政策であり、倒産が進んだ。単一為替レートは1ドル=360円であり、昭和46年12月にスミソニアン協定により1ドル=308円に切り上げられるまで22年間続くことになる。

昭和25年6月に朝鮮動乱が勃発した。特需景気が生まれ日本の経済再生の基礎が築かれることになったのである。戦後はじめての自立経済である。資源のない日本は原料を輸入してそれを加工して輸出する貿易立国しかないと官民ともに考えを同じくし輸出立国を国是としたのである。その中心に据えられたのが製造業であり、さらに細かく言えば機械工業である。石炭のエネルギーで産業の基礎を確立し製造業の順序として軽工業、ついで重工業、船舶、自動車、電機として発展し日本経済の基礎を築いたのである。

ともかく、生産復興のための原動力は設備投資であり、重化学工業の育成である。その資金を得るためには自己資金よりも借入金に頼ったほうがやりやすいという企業論理で設備投資を全産業を上げて進めたわけである。欧米に比べて自己資本比率が低いという企業経営における傾向が生まれたわけである。平成13年の現在の長期不況の下では、またグローバル世界経済の中では日本企業は世界経済競走場裏で自己資本比率の向上に必死になって今とりくんでいる最中である。

(2)日本の経営コンサルタントの誕生
一方、すでに経営診断に関係あったこの時代の責任者はどのように感じていたのであろうか。企業診断(創刊号・昭和33年9月号)には、当時の診断状況、将来の問題点などについて、学者・診断担当者の論評が記載されている。

●平井泰太郎氏(日本学術会議会員・神戸大学教授・経営学博士)が「コンサルティングの現状と将来」とについて一文を載せている。その趣旨は次の通りである。

経営に関するコンサルティング。職業としての経営コンサルタントとの成立と専門化。
コンサルタントとは商社、工場、その他一般会社とか官庁とかの依頼を受けて経営に関する顧問、診断、あるいは指導を行うことを業とするものである。経営機械化については20数年前第一回渡欧米の実情を見てわが国も速やかにこれを導入する必要があることを痛感した。再度、1937年(昭和12年)欧米に出張して機械化を痛感し、政府および学会にこれを提唱した。

経営コンサルタントの制度的に日本に創設したと言うとき、まず、その呼称を如何にすべきか問題となった。いろいろの提案があったが、最後に筆者が提案した「経営士」が採用された。後の日本経営士会がこれである。その時の公認会計士と同じく直ちに法制化したいという意見もあったが、最初から法制をもって作るよりも実態を発達せしむるのを先にしたほうがよいという考えからとりあえずこれを政府公認の社団法人として自治的な方向によって職業倫理を高調し、会員の選考を厳重にし、専門分野を定め、後進の養成、補導を行うという方式をとることになった。ただし、この職業名称の保護を図るため他に適当な法制ができていないので商号登録、意匠登録が行われた。

したがって後に別の任意団体として経営管理士などが生じたのである。会計士もまた、同様な経過を辿った。会計士以外に経理士とか会計人とかさまざまな呼称があった。最後にやむえず、「公認会計士」として法制化されたのである。経営士制度の誕生は昭和26年8月27日、安本副長官の名をもって全国より学識経験者約80名が集められ、準備委員会が結成され、9月27日に東京商工会議所において日本経営士会が発足した。これよりさき、昭和23年秋、診断制度が創設された。

中小企業自体に関しては中小企業庁は特に力を入れ診断制度創設以来の方針に基づき中小企業診断制度を創設した。その指定団体が社団法人中小企業診断協会である。当時昭和33年4月現在正会員973名、準会員521名、賛助会員22団体、総数1718名と報じられている。経営診断員については勿論問題がある。これをさらに診断士制度にしたいという意見もある。診断士は上述の経営士と密接な関係にあってこれを一括して、法制的に経営士制度の確立を図るべしという意見もある。しかし、これは将来の問題である。

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